ファッション音痴ゆえ長らくダサい格好してきた。
最近になってマネキン買いなどを覚え、ファッションのサイトを参考にするようになったことで、ようやく少しだけマシになってきたかもしれない。
今回は、僕がファッション迷子に真っ只中の頃の話である。

その服いいじゃん!

その帽子いいね!
などと言われるたびに、とても嬉しくなってしまい、脳が強烈な快感を覚えていた。
褒められた後は、固執するかのごとく同じ格好ばかりをしていたのだが、今から思い返すとどうもちぐはぐで歪な格好していたような気がしてならない。
好みやファッションの正解など、きっと無数にあるだろう。
今日の服に関しては自分でもさすがに意味がわからない。
ファッションに正解はないとひたすら言い聞かすしかない。
いや、堂々としてよ。— TOS (@19yukiaaa) July 3, 2017
褒められたとしても、たまたまその人の好みだった可能性が高いにも関わらず。
その頃は、「褒めてくれた言葉=唯一無二の大正解」だと、その時はすっかり思い込んでいた。
例えば100人に見てもらい、その中の8割以上が「ダサくない」「恰好いい!」「オシャレ」という感想を述べたのならそれはある程度、信頼性が高いデータだ。
ファッションに対して暗かった当時の僕は、少しでも自分のファッションを証明されることを追い求めていた。
承認飢餓状態だったといってもいいだろう。
だからこそ「珍しく承認された!」という実感がたまらなく、自分がしたい格好ではなく他人が褒めてくれた格好ばかりをするようになっていた。
この現象はファッションに限らず、様々な面で見られると思う。
例えば「売れたい!」「成功したい」「自己顕示欲を満たしたい!」と、切望しながら結果を出せていないパフォーマーは、承認欲求がどんどん膨らむことも少なくない。
何かのタイミングで承認を得ることができたパフォーマーは、褒めてくれた人、承認してくれた人の存在をものすごく重要なものだと思い込んでしまう。
もしそこに客観性が含まれておらず、ただの好みのみであれば、結構な悲劇だろう。
他人軸で生きるではなく、自分軸で来た方が人生は充実感があると、様々なところで言われ ている。
フォロワーさんが実績や経歴を詐称していたようだ。
承認欲求は一時的な快楽に過ぎない。
いずれ現実と虚像のギャップに苦しめられるだけなのに。
ありのままに生きた方が絶対に幸せ。
一部の人に認められて、慎ましくても幸せに生きた方が充実するよ。
— ユウ@夜遊びライター (@yukm954) February 28, 2021
確かにそうなのだ。全面同意だし、何も間違っていない。
言葉でいうには非常に簡単なのだが、承認欲求が満たされていない状態の人からすると、非常に難しい。
砂漠を歩き続けて喉がカラカラだったら、本能的に水を求めるもの。承認欲求が満たされない人への他者承認も、この構図と全く同じだ。
誰かから承認してもらえるのなら、命だって捧げてしまう…そんな逆転現象もあるだろう。
「自分の価値を誰かに証明してもらう」という考えは、一歩間違えると他人の人生を生きることになりそう。
承認欲求の虜になり、気付かぬうちに自我が薄れていき、最悪、他人の手のひらで踊らされる操り人形になる危険性を秘めているかと。— 猫男🐈@ASD.作業療法士 (@ASD09147925) February 9, 2021
我々の大半は、社会の中で暮らしているし、他者の言葉が日常的に耳へ入る環境にいる。
承認欲求に踊らされない人生というのは、なかなか難しいものだ。
己を知り、自制心を持ち、他者は関係なく自身が本当に好きなことは何かをわかっている必要があろうだろう。
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