コラム|承認欲求おばけが生きづらい風の時代の到来|マウント人間は風化!?

コラム
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アドラーの否定した承認欲求。

最近は、己の承認欲求が「少しだけ薄まってきたかな~…」と感じることがたまにある。

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以前は、自分が興味のある世界の有名人とつながりたいとか、少しでもつながりを作ることができた場合は、それを他者にアピールしたいという思いが根強くあった。

20代の頃に書いた埃のかぶったブログを読み返すと「承認欲求おばけで恥ずかしい」と、読むのをやめたくなる

別のコラムでも書いたが、地(土)の時代から、風の時代へと移行した。

この頃は「まず自分が楽しいか?」を基準にしている。

我々はあまりにも「競争社会で勝ち抜くことが唯一無二の正義だ!」という原理主義的な教育を受けすぎてきた。

幼少期から刷り込まれたおかげで、最近までそれだけが正義だと思い込み続け、苦しかった。

卑近な例で恐縮だが、肉体関係を持った異性の人数を競い合うような男性の飲み会が本当に苦手だった。酩酊しながら、関係を持った女性について声高に語る男性の顔は、いつも卑しくて品性のかけらもなく、そしてなぜか決まって大声だった。

こういう考えの延長にマチスモ、トロフィーワイフなどのワードがあるのだろう。

彼らは相手の声に耳を傾けることなく、自己アピールばかりを繰り返していた。それは会話と呼ぶには程遠く、奥底にあるヘイトをくるんだ憎しみの言葉だったのではないだろうか?

今思い返すとだが、何に関してもなぜある層の人達は数を競い合うことに熱中するのだろう。

数は客観的なファクトで可視化しやすく、分かりやすいのは確かだが、数字そのものは人間が優劣を競い合うためにできたものではないはずだ。

さて『風の時代』に入ったことで、かまってちゃんや承認欲求おばけがどんどん生きづらくなっていくだろう。自己承認であれば問題ないだろうが、他者承認は厄介だ。

他者なんて千差万別だし、絶対的な基準など存在しない。自分を知るためには、他者の反応をある程度知る必要もあるだろう。

しかし、いつまで経っても他者から承認されることが目的化していると辛くなってくると思う。

その点、人気商売は他者から承認によって成り立つ面が多分になるので、これから酷になることが予測される。

最初は好きで始めた仕事でも、「他者からの承認を集めること=人気の証明」になった途端、地獄の道が果てしなく続く気がする。

もちろん、その中でも自分の軸をブレさすことなく心理的に健康を保ちながら、生き続けられるタフな人もいるだろう。

若い頃は、自分のいないところで自分の陰口を言われるのが何よりも嫌だったし、心が揺れた。「お願いだから、いないところで自分をネガティブに言わないでくれ!」という心の叫びがあった。

承認欲求が薄くなると、どうでもいい人に嫌われるのが怖くなくなる。「悪口を言いたい人は気が済むまで言ったらいい」と開き直れたのだ。冷静に考えれば、陰口を叩かれたからといって、別段何が起こるわけでもないし、他者の行動をコントロールできるわけがないのだ。他者には陰口を言いたいときに言う自由がある。別にそれでいいではないか。

重要なのは自分が生きていく上で大切に思っている人との関係で、のべつたくさんの人とつながる必要はない。

本当に満たされている人は、かまってちゃんにならないし、誰に対しても公平に接することができる。マウントなんて、とる必要がないし、弱味を開示することもできる。

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に出てくる(存在を)苦にもされず、かといって褒められもせず、みんなにでくの坊と呼ばれながら親しまれているような人は、これからどんどん価値が出てくると思う。

承認欲求に踊らされマウント合戦に明け暮れていた昭和、平成を懐かしむ平和な時代の到来が待ち遠しい。

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