世界には、「勉強ができるだけの人」の暴力が無数に存在する。
それは、怒鳴ったり殴ったりするわけではない。むしろ言葉は丁寧で、論理的で、整っている。ただ、心がまるで欠けている。そんな人間が、時に校長として、教授として、人の上に立ち、「正しさ」を振りかざす。けれどその正しさは、ときに無数の心を傷つける刃となる。
僕が中学時代に出会ったR君の父親も、そんな人物だった。
R君の父は大学教授で、社会的には「尊敬される人」だった。けれど僕は、R君の家に一度お呼ばれしたときから、ずっと忘れられない違和感を抱えている。家庭には静かに、でも確実に心の通わない冷気が流れていた。
言葉にすればするほど、それは「正論」であり、「正しいこと」ばかりだった。R君が「でも」と意見を言おうものなら、父は「それは違う」とすぐに論破してくる。まるで教壇の上から、我が子に説教しているようだった。
R君の妹が思春期に心を壊したのも、今ならわかる。誰かがその家の歪みに耐えられなくなってしまったのだ。やがて暴れるようになり、警察を呼ぶ事態にまでなった。けれど、そのとき父が見せたのは「うちの娘が、頭のおかしいことをしてしまい申し訳ありません。この子は、前からちょっとおかしいんです」と謝るだけの、感情のこもらない対応だったという。
「ああ、この人は、本当に人の心がわからいんだ」僕は悲しくなった。
社会的には「頭のいい人」かもしれない。でもそれはIQの話だ。心の知能指数=EQは、驚くほど低い。誰よりも近くにいる我が子が、SOSを出していることに気づけない。あるいは、気づいても、どう対応していいのかわからない。
こんな人間が教育の現場にいたら?
恐ろしいことだと思う。
実際、似たようなことが、僕自身の高校時代にも起きた。
高校3年のとき、進路指導の担当だった先生がいた。彼は京大卒。教師陣も保護者も、彼の言葉には逆らわなかった。でも、彼の発言はいつも「点数」や「偏差値」といった指標ばかりだった。
あるとき、進路面談で僕の友人が「心理学を学びたい」と話した。するとその教師はこう言った。
「心理学? 君の成績ならもっと上を目指せる。〇〇大学の理系を受けたらどうだ? 文学部など受ける意味がない」
まるで、その子の「好き」や「願い」なんてどうでもいいとでも言うような物言いだった。
その友人は面談のあと、ぽつりと僕に言った。
「自分が何を大切にしたいかより、偏差値でしか判断されないのって、すごく空しい……」
その子は結局、心理学の道を諦めてしまった。校長の言葉がどこまで影響していたかはわからない。でも、僕は思う。
あの校長もまた、EQの低い人間だったのだと。
繊細な感性を持つに人間を、「数値」と「論理」で押し潰してしまう。自分の価値観や正しさを疑わない人間は、知らないうちに他人の尊厳を奪ってしまうのだ。
特にHSPのような、感受性の強い人間は、こうした人々の「鈍感な支配」に晒されると、一層深く傷ついてしまう。相手に悪意がないからこそ、余計に心が混乱する。「この人は、間違っている。でも、誰もそれを指摘しない。むしろ、正しいと言われている……」と。
IQが高くても、EQが低ければ、人は人を傷つける。むしろ、自分が「正しい」と信じて疑わないぶん、たちが悪い。
心のやりとりは、正しさではなく、あたたかさでできている。
家庭でも、学校でも、職場でも、優しい誰かが犠牲になって、冷たい誰かの「正しさ」を支えていることがある。
その「悲劇の構造」に気づける人が、もっと増えてほしい。
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